2016年6月10日金曜日

明治初期の美術業界と藩閥政治

昨日の歴活にて代表の安藤が【岡倉天心】について話しておりましたが、天心が東京美術学校(現・東京藝大)を追い出されることになる「東京美術学校騒動」について補足を。

テキストはこちら


事の経緯をおさらいしますと、天心は明治22年(1887年)に開校した東京美術学校の校長に着任します。この時なんと27歳。
早熟です。
学校運営に辣腕をふるう天心ですが、その天心に突如解任を求める怪文書が届くのが明治31年(1898年)。
これは同校内の天心批判派が出したとされ、結局天心以下多数の教官がいっせいに辞表を提出する一大騒動へ発展し、天心は日本美術院を設立(現在の院展)し、在野にて美術運動を展開していくことになる。


ところで、この時期の美術家の立場には出身藩が維新時に佐幕・新政府のどちら側であったかが大きく影響しているようである。

(そもそも、美術の担い手が士族が圧倒的に多いという特徴がある)

それは絵画において顕著で、初期洋画と工部美術学校(初の公的美術教育機関)には旧佐幕派の藩の出身者が多い。
川上冬崖、高橋由一、川村清雄…(直接の幕臣)

それに引きかえ、洋画新派は藩閥雄藩の出身者が多い。
黒田清輝、和田英作、藤島武二…(薩摩藩)

実は、東京美術学校設立時には洋画コースは存在しない。設立されたのは7年後の明治29年(1896年)
教官として迎えられたのは黒田清輝と藤島武二。

あまり深入しないがこれ以降日本における洋画の普及、教育は黒田清輝を中心に展開する。
明治40年に文部省美術展覧会(現在の日展)を開設したのは黒田清輝、そして首相の西園寺公望。

日本洋画のアカデミズムはまさに藩閥勢力を権力背景として形成されていったのである。


長くなったのでまた次回。。

0 件のコメント:

コメントを投稿